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蘭々
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女性
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学生
趣味:
いろいろ
自己紹介:
B'zをこよなく愛します。
歌ったり絵かいたり文章かいたり自然に浸ったりするのが大好きです。
好きなことがありすぎてやりきれてないバカです。
最近はタイピングをまた真面目にやってみたいなとか思いつつ適当にしかやらないダメ人間です。
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音楽・絵・文章・打鍵。
好きなものはたくさんあるけどほどほどにいろいろやってく蘭々の日記です。同人要素たまに。女性向けだよ。注意。
少し考えてからレスします…!有難うございます!
ていうか、死というものの恐怖を考えるにあたって、やっぱり死自身の定義をほったらかしにして考えてみて~…なんていうのはムリだったのだろうか。 確かに、哲学的思考にとっていいものじゃないのかもしれない。(仮定とかじゃなくてそういうものを超えてしまっている) 曖昧なままで考えようとするとこうなるのかなぁ。ううむ。 考えって突発的だものね。 正直私が尤も考えたくない(考えてしまうけど)というのは「死ぬって何か」 これって極論だと思うのね。人の人生を、「生まれて生きて死ぬ」って順番に並べるのなら、もうどうしようもないというか。 私という人間っていうか、生→死 と、人間がすごしてゆくとするなら、すべては死に集約されるわけだよね。 じゃあ何を考えたって、「まあ結局死ぬんだし」って片付けちゃうことって可能なんだよね。 何を議論しても、どんなものを定義づけようとしても、私、自己を考える上では、死っていうもののまえに、すべてが集約されてしまうといっても過言じゃないと思うんだ。 だって自己が進む道が「生まれる→生きる→死ぬ」としか決められてないと言うことができるのだから。 死が必然だとか、死は避けられないだとか、死は当たり前に訪れるとか。 死を、人間の最後だとするなら、それは当たり前って思われるだろう。(一般に言われる生物学的死?を考えるなら) でも死って定義されてないよね。 心臓が止まっても、全脳死しても、あらゆる反射が身体に見られないときでも、 死ってちゃんと定義されていない。心臓と息が止まれば死なのだろうか? 死を考えるので嫌いなのは、生命倫理も踏まえなければならないところだ。 脳死問題なんて特にだ。あんなにも揺らぐ余地のある「死の定義」なんて。 死が怖いとか、確かに単純に私たちが、それこそ感覚的に、本能的に捉える範疇の(深く突っ込んで考えずに身近に感じられる)「死」は避けられないものなのだろう。みな、死ぬのだろう。死なない人間は居ないのだろう。 けど死って何だ?って考えたとき、私たちは本当に死ぬのだろうか? 生きる事と死ぬことの境って、何だ?そもそも、私たちは生きているのか?生の終わりを、死と考えていいのだろうか。必ずしも死の始まりは生の終わりであるのだろうか。 そうではない。死は既に始まっているものですらある。私たちが生まれた瞬間から死は始まり、私たちが生きている間にも、死はそこに居る。 確かに居る。私たちが生まれる前にさえ死は生まれているのかもしれない。もちろん、自己の死だ。 そして生というものを考える時、主に生物学的に死と定義される状態に人間が陥ったとき、それは生の終わりであるのだろうか? あなたにとって、死って何であるだろうか。心臓が止まれば、死なのだろうか。大脳が止まれば、死なのだろうか。瞳孔が開きっぱなしなら、死なのだろうか。意識がなければ、死なのだろうか。 脳死状態は死なの?では植物状態は、死ではないの? 両者とも、意識がないに違いない。私が言っているのは、脳死と植物状態の定義の違いなんかじゃない。その定義において、それが「死」と「生」に分類される、その理由だ。 今の私にはよくわからない考え方もあった。それは本当に感覚的で、まるで哲学じゃないような。「心の中に生きている」なんて表現は、文学的であると思っていた。 でも「心の中に生きている」なら、「その人間は死んでいない」なんて事に繋がるという話を聞いたときは、本当に、理解しようとはしたけれど、まだよくわからなかった。今ですら、よくわからない。よく、考えてもいないんだろう。 話が飛躍しまくってるような気もする。ただ、生命倫理に飛んだり、医学的な定義の話に飛んだり、哲学的な話に飛んだり、統一性に欠いたもので、それは別々に考えるもの、とすら捉えられるような気もする。 でも違うよね。多分。死を考えるにあたって、こんな違う立場から見たってって思うかもしれないけれど、どの立場だって、ちゃんと死を定義できてないよね。 私は、死ぬってよくわからない。死ぬことが怖いのがわからないのは、死ぬとは何かがわからないかもしれない。 ただ、今、この世界で定義されている死は、曖昧だ。 それが正しいようには、あまり感じない。 PR 文章力なくてごめんなさい色気のない文章でごめんなさい萌えない文章でごめんなさい
平謝りです。久々にやるとなりメとかって本当に難しい。 こう、どうやったら、魅力が、引き出せるんだ…!! 一回まともなのができたとしても、続かないよ。力抜くってのが難しいよね、こういうのって。 あぁぁあ返さねば返さねば…溜めている。 派手に飾り立てたくはないし、比喩も使いたくないし、変に難しい単語の羅列もしたくないし。 心理描写も入れたくないし、客観的に視覚でとらえられるものを描写してどうにか…どうにか…… 言葉を選ぶって本当に難しい。「うがー」とかなって全部書きなおしとかね。 さみぃいいいです誰だよここ数日で夜の気温を10度も下げた奴は。
寒いよぉ寒いよぉ死ぬぅうう あと10度下がったらどうなるんだろう。考えたくない。ホットカーペットを、私に早くホットカーペットを…! 今日は白色ワセリン買ってきましたーチューブタイプなのーウフフ清潔ー 傷口に貼ってたテープに肌が負けてむちゃくちゃかゆくなったので居てもたってもいられずに学校でビリッと剥がしちゃいました。 傷口渇き気味…困った…(でも今も傷口を放置している←矛盾) 昨日ワセリン家で探してたら何かしらんけどなかったの。マミーがもってったのかな…まぁ自分で持ってるに越したことはないので買ってきました。 とりあえず塗っとけば乾かないと勝手に思っています。ていうかラップまくんめんどい…ラップ… って乾いてる…結構乾いちゃってるよ傷口…! とりあえず今もいっかい塗りました。(無駄遣いしないでください) ていうか傷口に直に塗っちゃ意味ない気がする…まあいいか…もう乾かなければ何でもいいよ…(投げやり) それはそうと本当に湿潤療法はいいです。痛くない。本当に全然痛くない。でもなんか臭い(言った) 治りも早いんだけど、ただ、治ってる途中の見るとめちゃくちゃ浅く切ったように見えて、何だかイヤだ(笑) 実際浅かったんですけどね。確かにこう上下に皮膚を引っ張ればぱかっと開きますが。開いたところで閉じればいいわけなんですが。(そんな深くないのですぐ閉じて結構ひっつく) 元気なうちは暢気にまた切りたければ切ればいいじゃないなんて思ってたりする。浸出液が少なくて治りが遅いから切り足そうかなとかまで今日思った。この落差は本当に何だろう。 わかってるんだけどね、後で後悔するとか、後悔したとき私は何を思って後悔したのかとか、そういう事を、切る前にきっちり考えるんだけど。 それが全然リアルじゃない。不思議だよね。今回はその色が強い。 何だこのアンビバレンスあははははとか思ってたら自分の中の矛盾とかそういうものに対する思考がまた始まってしまった。 どっかの哲学者か何かがこう、人間矛盾してるもんですよみたいな事言ってた気がする。忘れたから確かじゃないけど。 私という人間はもう矛盾で出来上がってるんじゃないかと思ってた頃だったから、何か印象深かった。私って矛盾だらけです。 に関連してゴチャゴチャ書いてたけど結局アダルトチルドレンの所為っていう線が濃厚になってきたからなんか無益になった… アダルトチルドレンと言えば、初めて先生に「ACです」って言われたとき「え?」ってなった。ACって何だと。 アダルトチルドレンの略らしいですが、いきなりACとか言われても!笑 ぶっちゃけ自分がアダルトでもないのにアダルトチルドレンって言われて戸惑いました。その意味を聞いてようやく理解できたのですが、アダルトチルドレンについてちゃんと調べたことないな。自分なのにな。 鬱についても辞書程度だし。…とか言いながら、結構鬱に関しては知ってるような。いつか調べたのかなー、特に勉強しようと思ったことはないけど、何だか知っている。 でもACって病名ではないんだよね。確かに病気って感じはしない。 リストカットシンドロームだって、(シンドロームいるのだろうか)、病気じゃないしね。 どっちにしろ私に必要なのは薬じゃなくてカウンセリングだよね。わかってるけど、めんどいよね。凄くめんどいよね。 ACもリストカットも、薬じゃなおんないよなぁ。多分。でも鬱は薬で楽になる事あるよね。 でも私ってこうやって人の注意を引きたいだけなんじゃないだろうか。本当に鬱なんだろうか、鬱って何だよ。こんな明るい鬱病居ますか。 大分良くなってきてるのだとも思うけど。そりゃあ、動けますし。 偶に動きにくくなるけど、何か、鬱って難しい。 元気になったように感じたときに振り返ると、私はあのとき本当に体が動かなかったのか、それともなまけていただけなのかって、わからなくなる。 悲しいことを自分で増やしていただけなんじゃないかとか、それもまた、今元気だからそうやっていえるんだろうけど。 あがりさがりが激しいなぁ。ずっと落ち込んでたときのほうが盲目的になれて、それは悪いことかもしれないけれど、私自身はある意味楽だったのかもしれない。 憂鬱なのが楽だなんて思えないけど、今の私はわけがわからない。罪悪感が吹っ飛んだり、罪悪感にさいなまれたり。 私という人間の大事さを感じてみたり、私という人間が最低であると感じたり。 大事さを感じられるのは、あれかもしれない、唯一の主観としての、ただの特別な存在という意味なのかもしれない。(独我論とか唯我論?) 独我論を読んだことはないけれど、私自身、初めてイマイさんと主観と客観についてやりとりしたときに、強く感じた。 実生活上全く無益というかむっちゃ不便なものだけど、この世界を観るにあたって、私の意識は昔から独我論的なものが強い。 主観を超えるということは、無理だよね。超人間的だ。それは神だけしかできない。 だから私だけが存在しているのは確かだ。「我思う、故に我あり」って、そういう意味もあるんじゃないだろうか? 本当の意味で私の主観から演繹法のスタートに定義できるのは、「私」だけだ。私以外のものは、すべて嘘かもしれない。虚像かもしれない。私以外はうそっぱちでありえる。 話ずれまくりましたが何だろううぁぁぁ考えたいことがいっぱいあるよぉ!!頭のなかごっちゃんごっちゃん。 人間ってすごい。やっぱりみんな、分厚いんだって思う。
人間ってみんな分厚くて、少なくとも私と同じ厚みがあって、 計り知れないような、唯一である、私と同様な、いやそれ以上のものが沢山ある。 この世界って何て壮大で計り知れなぅあっぁああラトビアぁああ!!(しっかりしてください) てなわけでうおおお遅刻するんでレス後でさせてください!!狂喜乱舞してますごめんなさい! っていうか今日アラン定義集読んできますよ!!ハァハァ。アラン定義集アラン 定義集アラン定義集…(自分との戦いに備えてます)もう逃げたくなった…(早ぇ) あー学校いきたくねぇええ今日の補習が何だったか覚えてないんです…一番前だしなぁ…後ろに座ろうかな… 閉鎖療法してるはずの包帯に、血がにじんでたんです。ぞっとしました。 ままあまぁあままさか破れて…うわぁあめんどくせえぇぇえ見なかった事にしてぇぇえとか思いながら渋々包帯解いたらラップ破れてませんでした。 何なんだよ!!私の貴重な朝の時間返せよ!! つーかへたりあん萌えるよ! イギリス演りにくいよ! 相方ローデリヒが先に寝落ちしてごめん!! うあぁああかきたいこといっぱぃあぅあっぁああラトビアぁああ!!(しっかりしてください) ずっと前、主観だとか、客観だとか、他者と自分の世界の存在だとかについて書いた時に初めて死ぬのが怖いということを深く考えたんだと思う。
「死ぬ」ということを掴もうとしたのは何度もあったけど、「死ぬのが怖い」ということを掴もうとしたのは初めてだったのかもしれない。 怖いなんていうのは私の感情なのに、その意味がわからないって不思議だよね。 イマイさんのおっしゃっていた「感知できない」という事について。 確かに、感じられるから感じられないのが怖い、のですよね。 なるほどと強く思いました。 私がよく「もしも」で考える恐ろしいことは、一生涯聴覚、視覚、触覚を奪われてしまう事です。想像するだけで恐ろしいですね。 視覚に関していうなら、暗闇に長く放置されると人間は狂ってしまうだとか。…友達が何回もそんな話してくれたような(笑) 確かに、目の前にあるはずの自分の手が見えない。自分が感じられない。 少しの間なら私という存在を確かに覚えているうちは大丈夫でしょうが、よくよく考えてみれば本当に恐ろしいことですよね。 特に視覚は機能しているのに、ただ暗闇で見えないっていうのが余計に怖い。 手を握っても、わからない。そこに私の手が本当にあるのか、触覚はあっても、視覚と一致しない。 私の胴体と頭と、腕と足とが全部ばらばらになって、暗闇に溶け込んでいく。崩壊していく感覚がリアルに…うわぁぁあ言ってて怖ぇえええ。想像しただけでもう気持ち悪くなりました。 おぞましいってこの事ですよね。感じられるものが感じられなくなる恐ろしさって、こんな感じで共通してるのかもしれない。 なら死ぬことっておぞましい事のかもしれない。少なくとも私にとっては。 確かに、ぞっとする。 そして、死ぬのが怖くないという事について。 今の私の感覚としては、死ぬっていうことは、怖いもの以外のなにものでもないような気がする。 ただ、考えようと思って、死ぬということを分解して、原子みたいに性質が伴わなくなるほどに細かくちぎって一つ一つ考えていってみると、「あれ?死ぬのって怖いんだっけ?」って感じる事もある。別に怖くないんじゃないのか、って。 ただ私の場合は機械的に、形而上的…非常に理念的に考えを積み重ねていったから、そう感じるのであって、私という生身の人間を考えたときに「怖くないじゃん」なんてのは中々言いにくい。(私はそもそも怖がりだ/笑) 哲学的思考っていうのは、面白いような、恐ろしいような。そして非常に無益な感じだってする。 数学みたいで、化学みたいで、私はそんな考え方が不思議で物凄く魅力を感じたんだ。私という人間は音楽だとか、絵だとか、芸術的、文化的、感覚的なものを好んでいたから。 物事を考えるにあたって、感覚や経験じゃなく、数学的にものごとを分解してきちんと定義して積み重ねていって、答えが出るという事を神秘的にすら感じていたんだ。 不思議だよね。終わりのないような作業を繰り返して、ひとつのものごとが完成するって、一人でやってる側にしてみたら凄く不思議じゃない? ひとつの編み物を完成させるのに、今日は青ばっかり、昨日は赤ばっかり、前の日の継ぎ目が見えなくなるほどひたすらひたすら編んでいて、なんにちも経ってみたら虹色が出来上がってるのって、不思議じゃない? 機械的な作業が、遠くから見たら感覚的に捉えられるようなモノを生み出すのって、不思議。 イエスかノーかなんて、感覚で答えられるのに、それを裏付けるのが、地道な思考の繰り返しだなんて、不思議。 言ってることが意味不明で電波ですみません!(笑)初めてその不思議さを感じたときのあの感動を上手く言い表せない。 それはもう慣れてきてしまっているからかもしれない、でも不思議なの!!あぁっ、上手い喩えが思いつかない… あの時の衝撃ってどんなだっただろう、思い出したい…けどこう、体の中身だけ昂ぶって空回りしてる、表現が(笑)そして話、逸れまくりました。 ていうか簡単にまとめすぎて寂しいんだけど、ぶっちゃけ帰納法で生きてきた自分が演繹法ってものに衝撃を受けたんでしょうね(笑) 演繹法の徹底ぶりってすごいと思いませんか。全部書いたものがやじるしで繋がってくの。連想ゲームみたいで。理論的で。最後に出る答えにノーと言わせないようなそんな威圧感がすごいよね。 非常に今印象に残っているのが、『自分の存在の探求、生きる理由の、自己の探求、果ては世界がなんなのか、わかんないのに何もかも感じない場所へ行く。消えてしまう。それって本能的に怖いことじゃないかなーとも思う』(引用ごめんなさいイマイ様…!!!駄目だったら言ってやってください!/ヒィ) 世界がなんなのか、わかんないのに何もかも感じない場所へ行く。 どう表現したらいいのかわかりません。わかりませんが、ものすごく私の中に響きました。 死を私も無と考えています。そして、やっぱり、感じなくなることが怖いんでしょうね。本当、イマイさんの言葉に強く感じされられました。感じなくなることが怖いっていうのは、「死ぬことが怖い」の大きな理由に違いないんじゃないかと思いました。 私は世界の中から私というものが無くなるという怖さを強く感じていましたが、確かに、世界とか以前に私として、私の感覚がなくなるのって怖いですよね。 今私と同居して、私を生かしている世界が、私を忘れ去ってしまう事にものすごく恐怖を感じていました。 世界というもののかかわりや記憶からなくなるのが怖いというのは、「誰か大切な人」のかかわりや記憶から私が忘れ去られてしまう事に対する恐怖に似ていると思います。 私が死んで、誰一人私を覚えていてくれなかったら、って思うと、恐怖を感じるのは私だけなのだろうか。 結構そういう人が居るのなら、その人も、世界から忘れ去られる事、怖いんじゃないだろうか。
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