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プロフィール
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蘭々
性別:
女性
職業:
学生
趣味:
いろいろ
自己紹介:
B'zをこよなく愛します。
歌ったり絵かいたり文章かいたり自然に浸ったりするのが大好きです。
好きなことがありすぎてやりきれてないバカです。
最近はタイピングをまた真面目にやってみたいなとか思いつつ適当にしかやらないダメ人間です。
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音楽・絵・文章・打鍵。
好きなものはたくさんあるけどほどほどにいろいろやってく蘭々の日記です。同人要素たまに。女性向けだよ。注意。
あとね、今朝しったのだけれど、私が物心ついたころから病気がちだった「やぐらのおばちゃん」とよんでいる、とてもやさしなおばあさんの容態がよくないらしい。
あと一ヶ月といわれているそうだ。 おばちゃんはとても優しい。けど、顔がまっくろだった。彼女は肝臓癌だ。 何度も入退院を繰り返していた。 そして、やぐらのおばちゃんのことも、死んだルンちゃんと母屋のおじさんのことも、 全部何もかかずに、何もなかったかのようにしていようと思ったのが、私であるんだと今振り返る。 なかったことのようにして、忘れ去ろうとして、 いやむしろ、それを書く事を拒絶して、 今回書いたことがよかったのかわるかったのかわからない。ただ私はいままで、沢山の、大事な事、 大事であれば大事であるほど、書かなかった。 私は無意識にそうやって忘れていこうとしたのかもしれない。 ただ本当に、記すつよさがあればよいのに。 それともわたしはただ冷たい人間なのだろうか。 そして思うのは、中学1年のころからクリスマスが近くなると良いことがないね。 去年の25日なんて、授業中にてくびきってたね。ぶらっでぃーくりすますですね。 中学1年のクリスマスイブには腕やら手首やら切ったのがばれて日付がかわるまで学校に拘束され、尋問され、やめろと担任どころか教頭にまでいわれ、母を大泣きさせ、父をとても怒らせました。その時の担任は最悪だった。 中学2年のクリスマスイブに精神科の予約を入れられ、私は泣いて母をものすごく怒らせたことを覚えている。 私は病院に行っても何もいえないこだったから、病院の帰りはいつも母がイライラしてるのがわかっていた。だからそんな顔をクリスマスに見たくなんてなかったのだ。 中学3年のクリスマスはよく覚えてない。ただ、受験生の冬は良い事がなかったのだということを覚えている。うまく思い出せないけど、そのうち思い出すんだと思う。これは高1も同じでよく思い出せない。ただ中3、高1(特に高1はずっと)はよくないことだらけで、夏も冬も凹んでいた。 去年高校2年のクリスマスイブには彼氏と別れ、(日記見たら残ってた/笑)25日はおもくそ授業中に手首を切っていたようです。 今年の25日は一体どんな日記が書かれるのか私にはまだわかりませんが、 イブでもう2つの命がなくなり、おばちゃんはあと一ヶ月だなんていわれてしまって、なんだか、やっぱりクリスマスは、よいことがあまりないのです。 PR 二つ目は、母屋のおじさんが死んだ。溺死だ。
私は海岸にルンちゃんを埋めに行っていた。できるだけ誰にもみつからないようにと深く深く穴を掘っていた。 漸く埋めるって時になって、何だかルンちゃんが暖かいような気がして。 もちろん、明らかに硬直して、心音もないし、呼吸もしてないし、 死んでいないはずはなかったのだけれど、掌で包んであっためて、マッサージしていた。 ルンちゃんが本当に死んでいるのか私にはよくわからなかった。 風が冷たくてとても寒かったから、掌に包んで、海岸に座って、明るかった景色がひどく明度を落としてきたことに気付くまで、ずっと暖めていた。 けれどやっぱり生き返りはしなかった。やっぱりルンちゃんの動きは止まっていた。 これは私の部屋で、ルンちゃんをなでながらないたときにも思ったのだろうけど、 この自分の姿は他の人が見ると、とても悲しいものなのかもしれないと思った。 生き物の死を悲しむものの姿として、一般的に、私はとても悲しいことをしているように見えるのかもしれないと思った。 それは、私が主体となったことがないから気付かないだけで、実際これは、悲しいことなのかもしれないと思った。 死んだペットを手に抱いてずっと泣いたり、もしかしたら生き返るかもしれないと、埋める直前になって埋められずにマッサージをはじめたりするのは、悲しいことなのかもしれない。 泣けることなのかもしれない。だけど私は、誰かがそれを悲しいことだと受け取るほど、誰かがその行為に「感情移入」して泣いたりするほど、悲しくなかったのではないかと感じる。 ただ、そう見える、そう例えば心なんてものはおいておいて、効果的なレトリックをこらした、作品のようなものなのかもしれない。 そしてそう感じている私は、それを実際は「悲しいこと」と言うべきであるということを知らずに、ただ理解できずに、悲しくないのかもしれないなどと、馬鹿をいっているのかもしれない。 私は、最初泣いた理由をたずねられると、私にもわからないのだけれど(可哀相というきもちはとてもあった) 純粋に、死んでいるということがわからず、マッサージをしていた。 私は他の人がいないと、おかしいのではないかと思われるほど何かをずっと繰り返したり、ばかげたことを、ばかげていると思わずにずっとやったりする。 だから私の行為はばかげていたのかもしれない。ばかげていたかもしれないけど、私はわからずに、 そうだな、よく思うのは何もしらない子供のように。 「生き物は死んだら生き返らない」というのが一般的なのだろうけど、それをちゃんと信じない子供のように、小さいからだを暖めていた。 子供って限度がわからないよね。ずっとやったって仕方無いこととか、できるはずのないことを、何度でも何度でもやるよね。私ってそれなんだと思う。子供とおなじで、「やったって仕方無い」と、「できるはずがない」ということが、純粋にわかっていない。 あと何分でつきますかって聞かれたときに、検討もつかない、そんなときの気持ちににている。 全く基準がわからない。この料理には砂糖をどのくらい入れればいいのだろうか?全く検討がつかない。 あのひとはどこにいますか、全く検討がつかない。意味のわからないたとえだろうけど、このときに少し似ていると思うんだ。 そして母から電話があった。母には早くかえってきなさいね、絶対にね、って言われていた。 私は海が好きで海岸に長い間居座ったりする。流石に冬で、寒いし、変な人が居ると困るから、早く帰ってきなさいといわれていた。 けど私はルンちゃんを暖めていたから存外に時間がかかって、私が家を出たのと同じに買い物に出かけた母が帰宅してしまって、私に電話をかけてきた。 ルンちゃんのお墓を作っていた私はかえるから早く電話を切ってといって、切ってもらって、かえる準備をした。 暗くなってきて怖かったし、走って自転車のところまで行った。 自転車を物凄いスピードでこいで、坂を下っているのにまた自転車をたちこぎして、慣れた港を通り過ぎて、帰った。 港には自転車があったようだけど寒々としていて、人気はなかった。 たまにそこに船に乗った人が居たり、雑談をしたりしている姿があって、たまに若い大人たちが横を通る私を見るのだけれど、その視線はなんとなく、居心地の良いものではなかった。 凄いスピードで通り過ぎながらも其処にその視線がないことをきちんと認めて、今日は寒い日だなと思った。 何か変な人やこわいひとにあったらいやだなと思いながら、人気がすくないことを呪った。 そう私はたしかにあのとき、1,2人は、人間が居るような気がしたんだ。 だからその1,2人が加害者になるのではないかとおもって、恐ろしくおもいながら、猛スピードで港を過ぎていった。 そして家でパソコンをしていると、救急車の音が聞こえた。 港の近くの造船場ではよく事故か何かがあるようで、(そのあたりは結構こわいひとが多いのであまり突っ込んで考えないようにしている)頻繁に救急車のサイレンが聞こえる。 ただずっとなりやまない。通り過ぎないのだ。 父が窓を開ける気配がした。たまに近くでサイレンが聞こえるとそうやって父は周りの様子を伺ったりする。 そしてその後すぐに父の携帯が鳴った。 こたえる父の声はつよしさんが居なくなった時と同じ色を帯びていて、私は扉を開けて、何かあったのと聞いた。 母屋のおじさんが港に落ちたのだという。 私は一瞬視界がひっくりかえりそうになった。 どうなったのかわからない、ただ家の中が騒がしくて、しばらく正しい情報はこなかった。 父さんは救急車から電話をかけてきて、家中の人が外へ出て、いなくなった。 母は泣きながら帰ってきたようだった。玄関から話し声がきこえていた。 下りていって聞いたら、おじさんが浮いていたといわれた。おじさんは死んだのだといわれた。 いつ落ちたのだろう、こんな時間に見つかって、出かけてから随分時間がたっていたのだろうと。 誰にも見つけてもらえなかったのだろう、寒かったのだろう、苦しかったのだろう、母はいろんなことを言って泣いていた。 あんなに病院に行って、体にきをつかっていたのにと。 誰にも見つけてもらえなかったのだろう、寒かっただろうにと泣いてる母の横で私だけ頭と体が分離しそうになった。 暗くなる直前、私は、港の前を、猛スピードで、走っていったよ。 猛スピードで、水の中になんて目もくれずに、――おじさんは港の奥のほうで浮いていたというけれど、私は暗くなる直前、人気のすくないことを不安に思いながら、走っていったんだよ。 悲しいって思わないように振り切ろうと、何か恐ろしい気配から逃げ切ろうと、母に怒られないように早く帰ろうと、凄いスピードで通り過ぎたんだ。 そこでおじさんが溺れていたんだ。みんなが話をしていた、「まさかあのひとが暗くなってから行かないだろう、暗くなる前に行って、そしうして―…」 悲しいとかそれ以前に、もしおじさんが溺れながら、…きっと私が通った橋は港のどこからでも見渡せる。 まわりでたった一人、自転車に乗って通り過ぎる私に向かって、助けを求めていたとしたら? 必死で私に助けを求めていたとしたら? もし私がきづいていたら、おじさんは死ななかった? 今、かきながら、ようやく涙が出てきた。おじさんは私を見たんじゃないだろうか、私が助けられたのではないだろうか、私はものすごく、何て残酷なことをした? どうしよう、おじさんが私を見ていたとしたら、苦しかっただろうに、さむかっただろうに、たったひとり、人間をみつけて、助けてほしいと、必死で、さけんでいたかもしれないのに、 通り過ぎていった、物凄いスピードで、 だめだかけない、 死にたくないのに そんなことで死ぬことはないのに 誰かの命が失われたことより、「死にたくない」という叫びが、悲しすぎるよ。 わたしはそれのほうがおそろしくてつらくてくるしくて、おそろしくて、おぞましくて、それがだれにもとどかずに、 締め付けられるような胸の苦しみと、体温を帯びた肺に似つかわしくない冷たい水、そんな異物が入り込むのとおなじに、 必死の叫びさえ水の中にしずんでゆくだなんて 気分がのらないとかかないっていう私もおかしいのかもしれない。
とりあえず今日あったことを先に書くべきだよね。 今日はふたつ命がなくなりました。 まず、ルンちゃんが死んでしまいました。私の飼ってたハムスターです。 冷たくなって、硬直しちゃっていました。私はあまりびっくりせずに、母は直ぐ泣いていました。 私は何でも恐ろしいことや悲しいことが急に起こって、衝撃を受ける事がとても嫌です。 例えば何かを期待して裏切られると物凄く私は弱いので、よくそれに耐えられるようにとあれこれ予想してみたり、「最悪こうなるぞ」というのを頭に思い描いてから何かに臨んだりします。 今日ルンちゃんの様子を伺おうと見たとき、いつものように巣箱で横になっていました。 私は知らないうちに、毎日ルンちゃんを覗くとき、「死んでいないかな」と思いながら覗いていたようです。 もしかしたら死んでいるかもしれない、そんな風に思いながら覗いたら死んでしまっていました。 私は直前に死んでいるかもしれないと思ったので、驚かず、ただ、母がまた泣くだろうと思って、ルンちゃんを持ち上げて、母を大声で、5回くらい呼びました。聞こえなかったらしい。 母はルンちゃんを手に持って、指先でなでて、こんなに小さいのに、昨日はあんなに元気だったのに、と泣いていました。 冷たくなって固くなっていましたが、私にはよくわかりませんでした。 ルンちゃんは本当に死んでしまったのか、こうやってここに姿があるのに、死んでいるのか。 確かに動かないし、水も飲まないし、――でも元々、私に喋りかけてきたわけでもない。 母は何故泣いているのだろう、死ぬってどういうことだろう、ルンちゃんが死ぬことは悲しいことなのだろうか? 死んだ生き物は腐っていきます。だからルンちゃんの体の中も今壊れて、硬直して、どんどん何かに蝕まれながら、放っておくと腐っていくのかと漠然と思いました。 それは体の中に何か害虫のような、おそろしい悪魔のようなものがあって、それが勝手に、眠っているルンちゃんの中を壊していくような感じを受けました。よく言い表せないけど。 母が死ぬのが恐ろしくて、母の笑顔が見られなくなるのが恐ろしくて、母のあの声が聞こえなくなることが恐ろしくて私はよく泣いていました。ないています。 ただ私にルンちゃんの笑顔はわからないし、声もよく、わからなかったのです。 ルンちゃんが私を必要としているのか、私がルンちゃんを必要としているのか、よくわかりませんでした。 だから死ぬということが悲しいのか、よくわからなかったのです。 それは依存の度合いによるのかもしれない。けれど、やっぱりルンちゃんを手に抱いて、指先でなでていると、何も悲しいなんて事はわからないのに、涙がとまらなくなりました。 私は何故泣いているんだろうと。ただ、「可哀相だなぁ」とは思いました。 よくわからないままずっと泣いていました。それはなぜ泣いているとか、どれが原因で泣いているとか、そんなことはまだよくわからなくて、ただ、そこにあるものが、本能的に、どうしても涙を流さずにはいられないものであったのだと思います。 生きると死ぬの境は、私にはまだよくわかりません。死ぬって、明瞭なようで、とても不明瞭であると、思う。 実際腐っていったりすることを考えると、それに境をつけないわけにはいかないんだけど。 「死んだ」っていったって、それはルンちゃんだって母だって私だって一緒で、 「死んだ」って、そこに私達は「ある」ことに違いなくて。 形があるのに、そこには「死んでしまった」という悲しみと、「死」という、事実が横たわっているだけだ。 死という事実といっても、死ということが、世間一般に事実だとされているだけで、 私にとって、そこにあったルンちゃんの「死」というものは、観念でしかありえなかった。 死というものは私達が作り出したもののように感じた。何をして死と言わしめるのか、 それはとても複雑ではないだろうか。 悲しい悲しくないに、ルンちゃんが大事だったとかそうじゃないとか、私が冷たいとかそうじゃないとか、そういうものは、関係ないのかもしれない。 感情というものがないわけではない。頭でそんなことばかり、考えていたわけでもない。 私の思考は、逃避か? 表現をしたいと思う。私は何でもかんでも創ることが大好きだ。 それはいつも私をどうにか形にしたいからで。 何かを創る人間になりたいというのは、昔からずっと言っていた。 その形が、今ここにあるのは、考え、記すということになっているのかもしれない。 けれど、それらは、全て逃避の手段にもなりえることがある。 大概私のクリスマスとクリスマスイブってそんなだよね(笑)
カッコワライとかつけてる場合じゃないけど、でも私はそうやっていつも重大なことを書かずに、私の思考や思想を大切にせずに、 大事なものばかりをなかったことにしている。 きっとそれは逃避だ。 逃避してるよ。それでもいい。 いい感じに手首がはれ上がっていますが何よりくさいですくさいです傷口くさいです
でも慣れたからいっそ好きです。(変態くさい) そろそろパソコンさまが臨終しそうなんですがどうでしょうか。 肩が痛いです。 もうむちゃくちゃです文章が。オナカスイタ。
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