考えることはいい。
むしろイヤでも考える。
考えっていうのはひとそれぞれだ。
だから私の考えは他のひととはちがうけれど
その違う考え方に触れるのが好きだ。
けどだめだ。
触れるのが好き。
その人の考えはその人の考えだから、
そんな考え方もあるんだなと受け止める。
それが大事だとよく先生たちはいっていたんだろう。
その人の考えを尊重、人それぞれだということをうけとめるということ。
人それぞれだということを知り受け止めること。
だけど私は違う気がする。
人の考えを、受け止めすぎてもいけない。
そうかそれもただしいだろうな。
私は全部それだ。
人の立場になってみようとする事が多すぎるのかもしれない。
その人の考えが、とおる立場に立とうとしすぎるのかもしれない。
だから何かを討論するときにいけない。
いろんな立場の自己中心的な意見が集まって真ん中が見つかるんだ。
だけど私は真ん中を勝手に探し始めるから、
「その人の意見も正しいよ、その人の意見も正しい。
この立場からみればそう思うのは仕方ないし、だからといってこっちもいるんだからそうはいかない」
なんて、結果を探そうとするんだ。
被害者の立場になってみたり、加害者の立場になってみたり、
そんなものは被害者と加害者がいるんだから私がすることじゃない。
だから結局駄目なんだ。
まんなかをさがしすぎてもだめなのか?
討論に偏った意見ていうのはものすごく大切だ。
偏った意見が沢山あるからこそ言い合って真ん中で平等を探すんだ。
私には私の意見が無いのか?
けれどいろんな立場から見てしまうんだ。考えてしまうんだ。
それは欠点になるんだろうか。なりえる、あたりまえだ。
ちょっとニュアンスかわっちゃったかもしれないけど、私は討論に向かないきがする。
いや、ひとごとなんだ、他人事だからこうなるんだ。
もちろんわかってる、自分がその偏った立場に立たされれば真ん中なんて関係なしに討論がはじまるだろう。
自分の信じる確固たるもののために言い争うんだ。
だけど私は自分が第三者である場合、きっとどちらにも加担しない。
みんな第三者であるのに、その事件の加害者がわ被害者がわの視点にわかれて話をする。
それはまるで本当の被害者と加害者が言い合っているようで、リアルな討論なのかもしれない。
そこでまんなかが生まれるのかもしれない。
私はただ両方を考えて両方を受け止めてただ分析しようとしてるだけだ。
分析が大切じゃないとは思わない。ただ昔の私ならどちらかの立場に立って思いっきり言い合えたんじゃないだろうか。
だけれどそれが、両方のエゴであるにすぎないからこそ、私はどちらに立とうとすることすらできない。
どちら寄りっていうのはあるけどね。
実際その立場におかれた場合完璧に自分の方をひいきするんだろうけど。
駄目だ文章わけわかめ。
何か誤解されそうだな。
でも私はもう少し私の意見を持ちたいな。
被害者とか加害者とかからまないことにたいしても。
私は哲学的な人の話を聞いたりよんだりして、めったに「NO」はいわない。
だってその人の考え。だってその人の意見。
その人の考えは正しいかもしれないね、くらいで。
だから私は一気に二つの意見を読んで、その意見が矛盾してあるとしても、私は両方に「YES」を出す。
ふたりの考えなんだから。ひとつひとつ、正しいよ、と。矛盾はしてても両方正しい。そんな言い方をする。
それじゃあ意見を聞いてるだけだ、読んでるだけだ、受け入れてるだけだ。
受け入れないのはいけない。否定ばっかりして自分の意見に固執するのはいけない。
だけれど受け入れるばっかりでもいけない。
それを最近忘れがちな気がする。
どの意見も正しいわけじゃない、偉い哲学者だってそれがNOと言えるときだってあるはずだ。
私の意見はどこだ。
私の意見をきちんと探さなきゃ。
私の意見に矛盾しているものであっても「YES」を出すというたいせいをやめよう。
せめてやめよう。どこが私と違うかをきちんと見つけて、文句言って討論して戦うつもりで理論を組み立てよう。
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