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プロフィール
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蘭々
性別:
女性
職業:
学生
趣味:
いろいろ
自己紹介:
B'zをこよなく愛します。
歌ったり絵かいたり文章かいたり自然に浸ったりするのが大好きです。
好きなことがありすぎてやりきれてないバカです。
最近はタイピングをまた真面目にやってみたいなとか思いつつ適当にしかやらないダメ人間です。
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音楽・絵・文章・打鍵。
好きなものはたくさんあるけどほどほどにいろいろやってく蘭々の日記です。同人要素たまに。女性向けだよ。注意。
ッヘーイ!明日から受験いってきまーす!
対策はゼロでーすっ!! OTL 相方がメッセで魅惑のスペインを出してくるので全然思考がまとまりません。っていうか自分が英西英好き過ぎてどうしようもありません。 でも米英大好きです。(わけわからん) 英西英いいよね。アヘンネタを絶対にかきたいんだけどどうですか。あへん! とりあえず萌え語りになりそうなのはいつものことです。それでも米英が好きです。(いい加減にしてくれ) まとまらないんだけどまとめるしかねーからまとめるよ…絶対まとまんねー付け焼刃にも程があるいろいろ。 寝たいよ。でも全然本が読めていないよ。 でも読んだものを思い出すためのメモって意味でも書こう。ちょっとしか読んでないけど、纏めるしかないもんね…… 私ってかきながら考えるって傾向が結構あるって最近気がついた。書かないと思考が停止するときがある、たまに笑 まず何で私が死に対する恐怖に不可解さを覚えたのか。 そこに独我論の限界を見たって話だけどもう少し掘り下げないといけない気がする。 まず何故そこで不可解さを感じたのか、違和感を感じたのか。これはどちらかといえば感覚的、直感的であったと思う。 現実から離れてるとか地に足が着いてないとか、思考する上ではどうにもそうなってしまうもんだとも思うから、中々言い訳にもしにくい。 その考え方はフッサール現象学の考え方に通じるものがあるのかもしれないけど。 まずどうして違和感を感じたかって言うと、主にあるのは伝統的なヨーロッパ哲学の中で求められていた「世界の真理」となる「一」の存在を信じて、 なおかつ独我論という「世界の真理」、「一」が存在し得ないだろうという考えをしていたからだと思う。 「世界はたった一つの世界であり、それはあるがままにある」とする、アリストテレス-トマス・アキナス-スノピザ-ヘーゲルとかの、世界認識の哲学ってものの考え方であるんだ。 ただ、独我論的な考え方は、どこかソクラテス-プラトン・ニーチェ・フッサールあたりが…、人間の意識としてある「自分の生は自分だけの固有のもので、他人と取り換えることも解ってもらうこともできない」っていう考え方で、大分変わってくる。 時間的には世界認識の哲学があって、ソクラテス-プラトンの哲学があって、また世界認識の哲学があって、フッサール現象学でまたソクラテスっぽい考え方に…みたいに、思うんだ…け、ど…(←全然自信がない) とにかく、一つにまとまっている世界の「真理」を求める姿勢と、自己は必ず固有であるという考え方は、共存しえない。 そこに摩擦が生まれて、変な違和感が生まれたんだろうと、思う。それは哲学史の中で主-客の一致っていうところで問題が生まれてきたのとよく似ていると思う。 スノピザの「神=世界一元論」を批判したカントの純粋理性うんたらかんたら哲学批判はとても面白いと思った。 けど、「結局答えなんて出ませんよ」って考え方ってちょっと、長い哲学史の中で受け入れられにくいものもあったような気がする。 何よりカントは道徳に重点を置きすぎて、なかなか首を縦にふれないことがないような気もする。 ただ指摘があるように、カントの一元論を批判して、世界の「真理」「客観」は存在するといいなおしたヘーゲルは、ギリシャ哲学でソクラテス=プラトンが批判した内容をアリストテレスが誤魔化したのと、本当によく似ているなぁとは感じた。 メモらないと忘れるよ本当に… アリストテレスはソクラテスやプラトンの意図を汲めてなかったっていう話も興味深いけど、それは置いといて。 そこで一番感じたのは、私がよく考えてる主観や客観について。 まず最初に感じるのは「客観って何だ?」むしろ「客観って存在するの?」って事。 世界認識の哲学においては「客観」、若しくは「真理」というものが存在して、それを探っていこうっていう姿勢だと思う。これは独我論においては成り立ちにくいのだと思う。 ただ私の考えは独我論とはちょっと違っているような気がする。図で書いたけど、どんどん泥沼になって未だに私のイメージはつかめていない。 それは演繹で考えてないからだとも思った。イメージがあって、…先生は、感性とか、そんなものが関係してもくるでしょうねと言っていたけれど。私の中で世界のイメージがあって、それに具体的な言葉を当てはめていって、矛盾がなければ証明として成り立たせてるって感じだ。 独我論というものをちゃんと調べたことがないけど、今私が認識してる独我論というものは、「自分の主観が全てで、世界は自分の想像」っていう考え方だよね。 ただ主観が全てであるというだけで、自分という実体自体が存在するかどうか…ってのは… でも、「我思う、故に我あり」っていうデカルトの言葉は、「我」という実体、物質的な…体が存在するっていうわけではなくて、「精神」が存在するっていう意味だよね、きっと。 なら、独我論における主観っていうのも体とかそういう意味じゃなくって、精神なのかなというイメージで私はいる。 簡単にいくと、独我論って 私(精神)>世界(存在一般) っていう図になるわけだけど、私の中で疑問なのは、私(実体)を、私(精神)とイコールにしてしまうのか、精神のほうを大きくしてしまうのかっていう事だ。 さっきかいた、「我思う、故に我あり」っていう言葉では、ゆるぎないものが「我」の「精神」ってされてるよね。 一番大きなものは「我」の「精神」である…けれど、肉体とか、この実体はどうなんだろう? 実体に精神が宿っているなら、イコールで繋いでも可笑しくないような気もする。独我論においてそのへんってどうなの。 私は「自分は夢をみているだけかも」という意識が強いから、明らかに 私(精神)>私(実体)>世界(存在一般) ってなるわけだよね。けど、問題になってくるのが精神を一番大きいものとして、実体を精神に内包されるものとしてしまうなら、世界、存在一般と、実体の大きさの比較ができるかどうかって事だよね。 絶対的なものが精神だとして、実体は精神より小さい…なら、実体=世界って、重さの上ではそれでもいいんじゃない?ってなる。 解りやすい例を出そうとしてみると、夢を見てるでしょ。夢の中の主人公は「私(実体)」であるわけなんだけど、その実体も虚像なのね。 夢の中でみる世界自体も虚像であるよね。だったら全く本物じゃない、本当に揺るぎないものじゃないってところで、私(実体)と、世界(存在一般)の大きさって、同じくらいになってしまうんじゃないだろうか。私(精神)から見た大きさは少なくともそうなるんじゃないかと思う。 そのへん独我論がどうなってるかわからないので何ともいえない… ただ、私が不可解さを感じた大きな原因は、その後にある。 独我論のようにこの世界を「想像」と捉えるのではなく、私の「知識」として捉えてしまっていたこと。 これは明らかに、おかしい。 私にこの世界は本当に「想像」であるという考えはちょっと少なかった。確かに、夢だとか、想像だとかいうものが原点になって考えを深めていったわけだけれど、この現実に存在するものがゼロから出発した「想像」であるとは思えなかった。 独我論を批判するときに「想像にしては膨大すぎる」とか、「想像ならばなぜ自分の思うように、都合の良いように進ませないのか」とかいうのがあるけど、 まさに「想像にしては膨大すぎる」っていう意識が、私にそう考えさせていたんだと思う。 だから私はあろうことか独我論的な考え方の中に、世界の中に存在する絶対的な「真理」ないしは「知」、「一」を求めていた。 正直、そんな事が成り立つはずはない。私が何度も図を書いては失敗し、「真理・知」というものを、「私(精神)」の外側に置くべきであるのか、内側に置くべきであるのかをずっと悩んでいた理由はそこにある。 そしてその悩みこそが、私に「独我論に似た自己流の考え」の限界を思わせるにいたったのだと思う。 なぜ、「真理・知」を独我論的な考えの中に入れようとすると失敗するのか。なぜ、私はそれをどこに置くべきか迷って、結局置くことができなかったのか。 「真理・知」というものを、「私(精神)」の外においてしまうと、「私(精神)」というものは一番大きなものではなくなってしまう。という事は、世界に「私(精神)」の認識し得ない「真理・知」が存在する、という事になってしまう。 これは世界を「主観のみ」と捉える独我論に、「客観」の存在があるとする事になってしまう。 これでは、独我論的考え方として、成り立たない。 では、 私(精神)>真理・知>私(実体)>世界・存在一般 とするならどうだろう? これって正直、よくわからないんだ。むしろ、「私(精神)」と、「真理・知」は、イコールであるのではないかと、思う。 私は理性じゃなくて感性的なところからこの考えにいたったわけなんだけど、当初私の感じたものは、 「私自身が大いなる知であって、その中に世界の存在、現象一般は私という知に内包される」というものだ。 ここでは私(精神)=真理・知 という図式が成り立っていたと思う。感覚はそうだった。 ああなんかいっぱいいっぱいになってきた…ちょっと分けます。うむうむ。 この真理・知についてはずっと考えてたんだけど、 真理・知がそもそも存在するか否かっていうところで独我論的考えを適用するには「真理なんてものはない」って考え方が当たり前とされてたことに今日はじめて気付いた。 真理・知の探求を不可能なものとして(これは言いすぎかもしれないけど)、心のどこかでその存在を捨て切れなかったカントの気持ちがなんだかつたわってくるようなきがした。 現実と、独我論的な「考え方」の不一致は、思考を深めていく上でこの世界に「真理・知」が存在する、いやしない、しないんだけどするんだというパラドクスをほったらかしに私がしていたから生まれたものなんだと思う。 ただそれは、過去の哲人たちが、カントが「純粋理性のアンチノミー」としたものたちに気付かなかったのと、同じようなものなんじゃないかなとも思う。 哲人たちのように凄い考えじゃないし、ちょっとすれば気付くようなことに思えなくもないんだけど、 「真理・知」の存在…カントでいう「神の問題」についてだな。 そうだ、私は「真理・知」の事を「神」とも書いていた。恐ろしい程だぶっている… 勉強していたひとは私みたいにこんな所で何回もコケなかったんだろうなぁ…カントを読みなさいって一蹴されるんだろうなぁ… とにかく、私はカントにひっくり返されて、フッサールに押さえつけられた。今日半日で。 あー神だってさ。昨日まではその「神」をどこにおくかで延々なやんでいたというのに… PR この記事にコメントする
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