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音楽・絵・文章・打鍵。 好きなものはたくさんあるけどほどほどにいろいろやってく蘭々の日記です。同人要素たまに。女性向けだよ。注意。
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死にたいという言葉に対して私が困る理由は、死にたいということがふつうなのか、そうではないのか、よくわからないからだ。
あるときだれかに「じゃあ自分に何をしてほしいの」って思ってしまうことを、言われても困るという言葉をきいた。
意外な、冷たくさえ感じられる言葉に、私はとても戸惑ったのを覚えている。
それをもし受けたとしたら、泣いているときに「どうして泣いているの」といわれるくらい、答えにくく、答えられず、つらい気持ちになるじゃないかと私は思ったからだ。
どうして欲しいとか、そうじゃなくてって、泣いているのはどうして欲しいとか、そんな気持ちじゃないから。
だからどうして欲しいとか、そんなものじゃなくて、そういう意味じゃなくて、わかってほしいのはそうじゃなくて…
そうじゃないのかって思ってたのは私のほうだったんだけれど。
けどそれは相手の事をおもってこそ、「何をどうしてほしいの」がわからなくて、困るっていうのもあるんだろうなって思った。

死にたいという言葉に困るのは、その言葉に、私が何を求められているか、全くわからないからだ。
そこに、「助けてほしい」の意味があるなら、私は助けなくてはいけない。
けれど、その意味がなくて、「ただ言いたいだけ」っていう理由だといわれたら、私は一体何をしたらいいのだろうと途方にくれてしまうからだ。
きっと私がしにたいを口にするなら、そんなことじゃないんだって思うんだろう。
けど、助けてほしいときは、しにたい、より、たすけてほしい、のほうが、鈍感な私にとっては、とてもありがたいのだ。

そして、死にたいという言葉を、全力で心配するべきなのか、そうじゃないのか、よくわからないのだ。

死にたいって感じる事は、異常だろうか?
中学校の先生は、いつか「生きてれば死にたいって思うこともあるだろう」っていってた。
「誰でも死にたいって思うことくらいあるよ」そんなふうに言う人もいる。
じゃあ死にたいって思うことは異常じゃなくて、それを、全力でどうにかしようとするのは、逆にこっけいなことなんだろうか?
だけど、死にたいの延長であるはずの、手首を切る行為は、「お医者様に行ったほうがいい」なんでしょう。
その境がわからない。
手首を切ったり首をつったりしようとしたら、だめなのだろうか、そこから心配するべきなんだろうか?
死にたいなんて言葉がでるのは誰かが追詰められているからで、そこですかさず、気をつけてあげるべきなんだと思う。
けれど、それが何度も何度も繰り返されると、死にたいがうすくなってこないか、私はそれがこわくてしかたない。
私はきっと、何度も何度も繰り返されることがこわいし、
何度も何度も繰り返されたら私はきっと、ずっと真摯に答えてあげられなくなる。
だから私は死にたいといわれるととても困る。
死にたいに、「今から薬を飲んで死にます」「今から首をつりにいきます」「今から手首を切ります」
そんな意味が込められているなら、私は全力で、何かできることを、探すべきなんだと思う。
死にたいって私に言ってくれるってことは、私になにか、できることがあるかもしれないから、だからいってくれるんだろうって、そうやって受け取る。
苦しい助けてって思ってるから、どうにかしてほしいって思ってるんだと受け取る。
そしてその苦しい助けてが、私に向けられたものじゃなくても、私という人物を選んでくれたその僅かな「特別」のどこかに、「あなたにどうにかしてもらいたいの」っていう、何かがあるんじゃないかと、そこまで責任を感じて、その可能性をきちんと考慮して、何かをするべきだと思う。

だからね、死にたいを使うのは、悪い事だとはいわない。
死にたいを思って、言わないこのとが、悪い事だと思う。
ただ私みたいなおろかな人間に対して、それを、わからないうちに使ってしまうと、
私は慣れてしまうのがすごく怖いんだ。どうしたらいいかわからない。死なないけれど、「死にたい」って言いたい。
それがいつ「死にたいから死にたいって言った」になるかわからない。
それがいつ「死にたくて助けて欲しいから死にたいって伝えた」になるかわからない。
私は私に役割があるのならそこでなにかしなければならないはずだ。
その役割がくめなくなるのがこわい。
そして私に何も出来ないのに、何も期待されてないのに、私がいつも真摯であることは、無理だ。
それは私がつらいからだ。
面倒とか、そんな気持ちがあるんじゃないかというのはおいといて、私は無力であることが辛いし、
何もできないことを私自身が悩んでしまうからだ。
だからといって伝えてほしくないのかといえばそうじゃないのがわたしで、
私は自分をどうしようもないところに追詰めるのが得意な人間だなとも思ってしまう。
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