どかんっと何でもないのに落ち込んで憂鬱でそれを無理やり引き上げようとしてジタバタしてたら2日を大失敗してしまった。
ああ何てバカなんだろうと思いつつ、ぼんやり少し考えたら憂鬱なら憂鬱の中に暫くいればいいんじゃんっていまほんとにいま気付いた。
でもこの2日で失敗した事はものすごく私にとって重い。それこそ何であんなことをってかんじ。
修復できるんだろうか。あああわかんない。
別に憂鬱なら憂鬱でいればいいじゃんね。できもしないうちに自分を過信してもとに戻ろうとなんてするから間違えるんだ。元に戻りきれずにえきらないから他の人を不快にさせるんだ、きっと。
別に何かのせいにしてみればいい。醜いことや愚かなことを理解していてもそれをやればいいんじゃないだろうか。
間違いたくないからってそれを避けようとするから私はいけないんじゃないだろうか。
道理にかなっていないことだとわかればそれをしないようになんて窮屈な考えがいけないんじゃないだろうか。
わかっているってことが大切ではあるしわからないってことは恐ろしかったりする。
だけどわかっているからって、私はそれを出来るんだろうか、出来ない。判っているものだって、少数だ。その少数を心がけることで私は自分の中になにかしら見出そうとしてる。
それは意味が無いことじゃない。だけれど私の器量にあっていないだろう、そうだろう。
少数ですらやりきれないんだ。
わかっていればいいわかっているけどする、そんな理屈は通じないし見方によれば最悪だけど。
最悪だけどできやしないことをしようとして何になるんだろう。
いや、心がけるってのは大切なのかな。目標にするっていうのは大切なのかな。
今こうやって目標にして、盛大にすっころんでそれが過程ってやつなのかな。
何だか違う気がする。けどあれが出来るひとはきっととても、素敵。
まあいいや。とりあえず憂鬱なら憂鬱でいいんじゃないだろうか。上がる努力っていうのは必要なんだろうか。必要じゃないわけないともおもう。努力はいつだって大切だ。
上がるようになったら憂鬱から抜け出せたりするんだろうか。そうなんだろうか。
わからないな。うーん。本当によくわからない。
責任転嫁をしてみる。
だから秋は嫌いだよ。
さびしいし憂鬱だしさむいしいろんなものの終わりを感じる秋はきらいだ。
別にキライじゃなかった、中学2年くらいまでどの季節だとかそんな、選ぼうとしなかった。
あああの先生がああいったんだ。「秋はもの哀しいものね」
云われて見れば秋に良い思い出はなかったと思った。
あの秋晴れを愛せるかと思った矢先にこれだ。哀しくなってきた。
タイトルの話をすっかり忘れていた。
私は忘れないことに執着する。物忘れ激しいけど。
正しくは、忘れることがきらいだ。昔っから、大切なものを忘れることが怖くて、記憶から消えるって事を酷く恐れてた。
どんな感覚してたのか今でもよくわからないけれど、最初に忘れるってのを怖くなったのは幼稚園だとかものすごく幼い頃だったっていうのは間違いじゃない。
自分が忘れたくなくて、人間は時間がたてば何かしら忘れるということを知っていたから、大きな落書き帳みたいなスケッチブックに記したんだ。覚えている。
そして何を記そうとしたかをきちんと私は今でも覚えている。不思議だと思う。
だけどあの時の恐怖は強かったんだと思う。否むしろ、「忘れたくない」という強い感情が自分に存在したのがそのときが初めてで、その初めての思いと思いの強さが鮮明に私の中に残っているんだろう。
それからも私は何かしら忘れたくなくて記そうとした。どこに記したかは段々と曖昧になっているけれど、別にその落書き帳を開きなおしたわけでもないのに、私はそれを記した事をきちんと覚えている。
小学生の頃に記したものもあった。今の私にも共通していることである『忘れたくない』って気持ちの強さ。
みんな知っているだろうけれど、忘れるものは、忘れてみればそう大事でもないんだ。
だけれど誰しもそうであるだろうと私は勝手に思ってる、何かをひどく大切に思って、そしてそれをまだ大切に思っているときにその大切なものが己から離れていって自分の記憶から消えていってしまう可能性が在るとき。
とても恐怖するんじゃないだろうか。この感覚は私だけなんだろうか。
恋愛だとか対人関係において今私の中に著しくそれが現れてるんだろうと思うんだけど。
だれかを酷く好きになったり誰かをひどく大切に思った時、その対象への「大切だ」っていう思いが消えるのがものすごくおそろしい。
明らかに風化してゆく感情なのだけれど、その風化が、怖い。
それは私が自分の感情に誠実であるのかそれとも、ただ強く何かを大切に思いすぎているのかわからない。
けれど意図的ではない、当たり前だ。
ただの依存症だろうか。ああそうかもしれない。けれどひどく、本当にひどく大切にしたもの限定だな、これは。
だって、大切っていうのにも度合いがあって、これの一歩手前の場合、私は自分の感情じゃなくその「対象」に依存する。
その対象がそばから消えていくのを恐れる。それ以上大切に思った時、私は自分の「大切だ」っていう思いがそばから消えていくのを恐れるんだ。
そう、すりかわってる。何かに必死になったときその対象がすりかわるってよくあることだ。
私はすりかわっているだけなんだろうか。何かを大切にして、その大切なものから、強すぎる自分の感情へと意識がすりかわっていっているんだろうか。
わからない。
否、「大切だ」っていう思いは依存からくるものだ。そうだ、私は何かしら依存していたい。
結局依存なのか。
私は何かに依存していないと気がすまない。依存とまではいかなくても何かを大切に、何かにハマっていたいと思っている。
趣味がどんどんいろんなものに広がっていく私の悪いクセ。
何か自分が愉しんで、はまっていられるものがないと落ち着かない。何かに依存していないと落ち着かない。
そして人やものや事柄を、ひどく愛して酷く大切にすること、それが私にとって最高の依存なんだろう。
「大切だ」って強くおもうことってくらくらするくらい気持ちいいんだ。
依存するってことはくらくらするくらい気持ちいいんだ。
何かに自分の全体重をのっけて、何かに必死になって何かにもたれかかって、
周りのいろんなものを犠牲にして、それでもそこにいたい。そんな盲目的になることはものすごく簡単で私にとってすばらしい現実逃避なのかもしれない。
依存癖か。
依存ってただ、私にとって大切なものだったけれど、
なおさなきゃいけないかもしれない。
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