さっきまでピアノひいてましたどうも蘭々です。
今日は三者面談でしたーおそろしやおそろしや。
まだちゃんと決まってないんですが、なんか大学、C判定のところ受けさせられそうです^^^qqqq
落wwwwwちwwるwwwwwうぇwwwwwww落ちるよwwwwww募集4人とか3人とかそんな所の…
A判定B判定のところは遠いという理由で却下されました…と、隣の県だぜ…まあ四国じゃないところも言ったけど…遠いって…
それにしても全然考えた事のない大学とか学部がいっぱいで頭ぐるぐるしてます。
実技活動にしてもピアノは今は適当にひいてるだけだし、書道は準十段で止まってるし、(両方中学でやめたよ…)絵も巧くないし、勉強だってコケまくりだしでたまに思うけど私って何一つ極めようとしてないなぁとまた感じました。
勉強全部捨ててでも絵や音楽に打ち込めるって凄いと思うよ。逆もすごい。私はけっこう沢山のものに興味を持って、それをつまみ食いしていくから何も「上手だ」っていえるものがなくてたまに凄くコンプレックスを感じる。
一回でいいから一つのもの以外やらずに過ごしたい。ただ沢山のことをするっていうのは、凄くいい経験になったり、いろんな角度からものが見えて愉しいとは思うんだけど。
でもどんなに視界が狭まろうと一つのことに打ち込んでみたい。
なんていいながら私が一つのものに打ち込める人間だったら、私はきっと色んなものを多角的に捉える能力とか、総合的な力が欲しいなって思うんだろうな。
結局私はそんなところに於いてもいろんな角度ってものが好きってことで、一つのものしか見えない状態と、多くのものを見すぎる状態と、両方を知っておきたいと感じるんだろうなぁ。
でも何か一つのものに打ち込まない限り、一つのものを必死に追い求める人間の視点というものは一生わからないわけだから、やっぱり少し打ち込んでみたいと思うよね。
それは勉強でもいいし、芸術でもいいと思う。ただ勉強というと、なんとなく広範囲になるよね。ピンポイントで何の勉強って言ってもいいんだけど。私は極端な事が嫌いじゃ無い。結局自分が極端だと、それを嫌悪するんだけど。極端な事自体は嫌いじゃ無い。
なんで私がわざわざ極端を経験して極端を知りたいかって、それを知らないうちには、自分と違う人間を理解できないからだろうな。
わかる必要が必ずしもあるとはいえないけど。天才というものは私には理解できないだろうし、凄く残念だけど、分相応だと思う。
とりあえず話を戻して…このまま親に流されると私は今日からいろんなことに必死にならなきゃいけんわけですができるんだろうか…
もう今から生物を習うような気持ちです。(←生物未履修)
っていうか、ァあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!
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